僕の世代から見た、川上哲治という男
「打撃の神様」川上哲治氏がお亡くなりになられました。
プロ野球を嗜む者ならば誰もが知っている、いや知らなければ恥ずかしい程の方でしたが、選手時代はあまりにも昔…父親も記憶にないんじゃないかなぁ。
ではなぜ現在も語り継がれるかと言えば、やはりこれでしょう

監督14年で優勝11度、球史に永遠と残るであろう1965~1973年V9。
そして出場すれば100%日本一になっているという…
リーグ連覇することがまれだというのに、まして連続日本一など…
テレビやラジオ中継でもしきりに「V9以来の連続日本一」言ってますが、いかにV9が異常だということが分かりますね。。。
王、長嶋、柴田、土井、森、広岡、高田、国松、末次、黒江、坂崎、堀内、藤田、金田、宮田、城之内、高橋、関本…ぱっと思いついただけでこの戦力。。。
「勝って当たり前のチーム」かもしれませんが、いや、川上氏の取り入れた「ドジャース戦法」が革新的過ぎた故の連覇でしょう。
その全てが現代野球に繋がっている。考えてみればとんでもないことではないか。
しかし、勝ちすぎた代償、ファンやマスコミから冷たくされることもあったようですが、それでも淡々と勝利を求め続けた川上氏に「漢」を感じずにはいられないのです。。。
選手としても赤バットで打ちまくりプロ野球史上初の2000本安打、「ボールが止まって見えた」はあまりにも有名すぎる名言…などなど書ききれないほどの輝かしい実績ですが、、、
僕が川上氏のエピソードで一番印象に残っているのは、晩年のとある1コマ。
長嶋がデビュー戦で金田から4三振を食らったのは有名なエピソードですが、その後…
ロッカールームに引き上げると、長嶋は、四番川上哲治に慰められた。川上はこの年の夏、四番の座を長嶋に譲り渡し、この年かぎりで背番号16のユニホームを脱ぐことになる。川上は三年前に痛めた足首の状態が悪化していて、秘かに自転車のチューブを足首に巻き、締め上げて出場していた。
「だれだってこういうことはある。今日は金田が良すぎたのだ。巨人軍は14三振もとられている。クヨクヨするな。さあ、帰るか。」
川上の家は世田谷区野沢、長嶋の下宿も野沢。長嶋は川上の車に乗せてもらった。
はなやかに入団した長嶋だが、車はまだもっていない。夏の甲子園大会が終わるとすぐに高校の野球選手が運転免許をとりに教習所に通うような時代ではない。プロ野球に入った新人選手がすぐに車を買う時代は、ずっと先のことである。
川上は、しょんぼりしているであろう長嶋を慰めようと、水道橋から四谷に出ると、神宮外苑に向かった。思い出の神宮球場のそばを通ろうというのであった。樹々の緑が綺麗であった。長嶋は、ほっと心の安らぐのをおぼえた。
川上は、神宮球状の前から青山へ道をとってから、カーラジオのボタンを押した。シャンソンが流れてきた。長嶋はうっとり聴き出した。そのときであった。
「うーん、これはつまらんなあー」と言って、川上がボタンを押しかえた。するとなんと、浪花節が流れ出したのである。
「あっ…ベベン、ベン…、と三味線が聞こえてきましてねぇー。カネやんにはやられるし、悲しくなって、ほんと、泣きたくなりましたよ」
(熱闘!プロ野球三十番勝負より)
巨人軍の英雄2人が不思議な空間を作り出している、そして川上氏が去ってしまう寂しさも感じられる、この文章がなぜか忘れられないのです。
93歳の大往生。ご冥福をお祈りいたします。
では。