2015-02-06(Fri)
暇人之歴史探訪 一.谷中霊園 (中)
※間違った事項がありましたらコメントお願いします。
前回の続き…
声をかけられ振り向いた先には、一般の方かと思ったおじいちゃんが一人。
そして謎の墓の解説を始めた…
「彼の名は勝精(かつ くわし)。慶喜の十男だよ
つまり徳川家な訳だが、勝海舟が頼み込んだことで勝家に婿入りした。その相手は海舟の孫・伊代子。彼女の名も読めるだろう」
…ということで、慶喜の墓を出て正面にあるのは勝精の墓であったのだ。
帰って来て調べたら分かったのですが、この人物、あらゆる方面の事業に手を出して、妻の死後はかなりの遊び人でもあったらしい。ぬぅ…こんなところに眠っているとは…
説明を必死にメモっていると、
「俺はボランティアで案内やってんだ。何なら面白いところ連れてってやろうか?」
まさかの現地ガイド。二つ返事でお願いする俺。
そしてここからガイドじいさんを独占した、長い旅が始まる…
前回の続き…
声をかけられ振り向いた先には、一般の方かと思ったおじいちゃんが一人。
そして謎の墓の解説を始めた…
「彼の名は勝精(かつ くわし)。慶喜の十男だよ
つまり徳川家な訳だが、勝海舟が頼み込んだことで勝家に婿入りした。その相手は海舟の孫・伊代子。彼女の名も読めるだろう」
…ということで、慶喜の墓を出て正面にあるのは勝精の墓であったのだ。
帰って来て調べたら分かったのですが、この人物、あらゆる方面の事業に手を出して、妻の死後はかなりの遊び人でもあったらしい。ぬぅ…こんなところに眠っているとは…
説明を必死にメモっていると、
「俺はボランティアで案内やってんだ。何なら面白いところ連れてってやろうか?」
まさかの現地ガイド。二つ返事でお願いする俺。
そしてここからガイドじいさんを独占した、長い旅が始まる…
まず案内されたのは…再び慶喜の墓。
そこで足元をよく見るように言われる。そこにあったのは…通貨だった
なんと敷石にくっきりと、当時のお金が埋まっているのである。これは是非現地で見ていただきたい。
「墓なんてのは、当時のものがいくらでも埋まってんだよ。俺はこの前寛永通宝見つけたから家に保管しといたよ」
らしいwwwマジかよ墓荒らしスキル身に着けたいわ…
さてまたここに戻ってきて詳しい説明を受ける

左が慶喜、右が妻・美賀子の墓である、と言ったのは前回通り。
加えて、それ以外の墓の紹介もしてくれました。
「慶喜の背後に2つあるのは、側室の中でも特に近しかった方のものだ」
多くの側室を抱えていた慶喜。その中でも、最期の瞬間を見届けた二人はここに眠っているそうです。

「左側に眠るのは、徳川慶光だ」
慶喜の孫にあたる。割と最近亡くなった方です。で、その両親にあたるのが

「右側に眠るのは、奥が徳川慶久、手前が妻・實枝子(みえこ)。
實枝子は有栖川家の娘で、徳川家に嫁入りしたのだ。
また、慶喜には沢山の子ができたが、そのほとんどが間もなく亡くなってしまった。9人の子供たちは右最奥の木の下にまとめて埋められている。
さらにその左にある墓には慶久の長女・慶子が埋められた」
名も刻まれていませんが、しっかりと子供たちの魂は眠っているようです。将軍家は子孫を残すのも大変ですね…
また、
「鳥居がないのは、慶喜家は儒教だったからだ。あの墓の形も儒教独特のものだから、中国人がここを訪れても違和感がないのは当然だ。むしろ日本人は不思議がる」
「明治政府が寛永寺を奪った時、上野駅前に合った墓をごっそりここに移してきた。なぜならジャマだから」
「慶喜の墓の敷地はもっと広かったが、今は縮小して家来の墓を置いている。なぜなら、いくら徳川家とはいえ、維持費がバカにならないからである」
などの話も。特に3つ目の「名家三代続かず」とも言うべき、墓の維持に関しては今回の旅の大きなテーマとなる…
そしてこの近くには
「慶喜の七女・浪子の墓がある。彼女は津山藩・松平家の斎に嫁入りしたんだが、そいつが蒸発しちまった。普通の家だったら名前は残してもらえねぇが、流石に徳川家と繋がりがあるから墓誌には刻んである。没年月日が書いてないのは、結局見つからなかったからだ」
成程面白い。確かに名前の上にぽっかり空白があるんですよね
「四男・厚の墓もある。こいつも松平家の妻をもらってる。松平慶永の娘・里子だ。
ここの墓誌だけにはしっかりと家族構成も書いてある。見ろ、四男と書いてあるだろう」
厚は議員としても活躍した人です。こう、しっかりと情報が書いてあるとありがたいww
「ここら辺一帯は、大奥の墓だったんだ。
だけどこの手の仕事は、遺族もいなくなったり管理しきれなくなったりする家系が多くなるわけだ。そうなると墓は撤去して、その土地を一般の人に貸してお金にする。そんなもんだから、今じゃ大奥の墓が固まってるところはほとんどない。ついこの前もトラックが墓石を運んで行ったよ…」
正に金の問題である。金がなければ畏れ敬われる墓もおさらばなのが現実。語るじいさんは少し寂しそうであった…
こんな感じで、やはり慶喜の周辺には関係者が多いようです。
…文字情報だけで申し訳ない。写真撮り忘れましたwwつい話に聞き入ってしまって…
慶喜周辺だけでお別れかな…と思ったら、どうやらまだまだ案内してくれるようだ。ずんずん進む。
「墓の維持と言えば、徳川家の中でも明暗が分かれているんだよ。他の御三卿の墓も連れてってやる」
八代将軍・吉宗から九代将軍・家重の間に確立した御三卿。田安・一橋・清水が分立したものです。
一橋家はご覧の通り、慶喜を中心とした立派な墓がズラリ。
田安家はというと、これも超立派な敷地に沢山並んでます。(写真撮り忘れた…)
「この家系は今もすんげー裕福なんだよ。寺側から敷地の縮小を求められても金積んで手を付けさせなかったくらいさ」
つまり金最強である。
一方の
⑬清水家 寛永寺墓地内

「御三卿で一番衰えたのは間違いなく清水家だ。ご覧のとおり、ほんの少ししか残されていない。御三卿でも世の流れには勝てないんだよ」
久しぶりの墓カウントはちょっと寂しい…立派な墓石ですが、敷地が狭いんでスルーしてしまいそうなほど。
さてさて徳川家を満喫したところで、他に連れて行ってほしいところあるかと聞かれたので、迷わずこの人の名を伝える!
⑭渋沢栄一 乙11-1

慶喜の家臣であり、国立銀行条例作成に尽力し、自ら第一国立銀行(現みずほ)頭取となり、東京慈江会、赤十字社設立等社会活動に奔走し、他にも数えきれないほどの実業家っぷりを発揮…
稀代の変態(褒め言葉)天才である。好きな歴史上の人物五指に入ります。。。
ちなみに、戊辰戦争が一つ・上野戦争でボロボロになった寛永寺を再興したのも彼である。何だこの神は…
左が後妻、右が先妻の墓らしい。
以前、この前にもいくつか墓があったらしいです。それを移動させて広場?にする工事中なので、普通は入れない…はずが、工事のあんちゃんがじいさんの知り合いらしく、入れてもらうことにww

近くで拝めましたー。
裏にも墓が見えますが、全て渋沢家のゾーンです。こちらも厳重なガードがしてあります
広場ができたら印象が変わりそうですね。また来たいです。。。
渋沢関連でもう一つ。彼の前に、ある有名人の墓があったのですが、この工事ですっからかんになっている。
じいさんに尋ねるとすぐ案内してくれました。
⑮今村清之助 甲3-1

なんと澤田正二郎のすぐそばに移動していらした。全然気づかなかった…
彼はズバリ、成蹊大学創始者!そして両毛線、九州・関西鉄道、山陽鉄道の開通に関わった「鉄道王」である!鉄道好きもぜひ訪れてほしいところです。。。
渋沢栄一とは在る一大事業を果たしたので、墓を引き離すなど言語道断だと思うのだが…どうやら都は広場を増やしたいようです…
まあ代わりにかわいい汽車付きの石碑が追加されたのは見所ではあるが
成蹊大学が出てきましたが、大学創始者の墓もかなり多いですねー
⑯岸本辰雄 乙4-9

⑰宮城浩造 乙7-4

明治大学創立者三人集が二人。岸本先生が初代学長です。ちなみに設立当時は「明治法律学校」ということで、当時まだ珍しかった法学の学び舎でした。
ちなみにもう一人の創立者・矢代操(みさお)は青山墓地に眠ル
…この二つの墓には明治大学が設置した立札が置いてあります。流石明治、そこらへんには金を惜しまない。
⑱佐藤泰然 甲新16-24

順天堂大学の基礎を確立させた。高野長英や堀田正睦とも関わりがあるそうです。
ついでに、順天堂の開設に至らせた人物が養子の佐藤尚中で、ちょっと離れたところに墓有
…これは初めて知った…じいさんに「まだまだあめぇなぁ」と言われる俺w いやじいさんいくら歴史好きでもにわかなんでキツイっす;;;;
ついでに「墓を見る技術も身についてねぇなぁ」と一蹴ww
「家紋をよく見ろ」
「墓誌、墓石の文字を隅々まで読め」
「『院殿』とあったらとりあえず身分が高いと思っとけ」
いろいろご教授いただきました。
『院殿』は最高レヴェルの戒名ですが…谷中霊園ではそこかしこに見られますwwつまりそれほど権力者がたくさん眠ってるってことですよ…
だっていろんな地区の藩主がここに集まってきて、しかも何代も…そりゃ多くなりますわ。
はっきり言うと、谷中で著名人の墓巡りはキリがなさすぎて無謀。振り向けば院殿…
家紋はちょっと勉強すると面白いんですよ。同じ徳川家でも、功績残した人はその証としてビミョーーに違う家紋が渡されたり、聞いたことある苗字でも家紋で著名人なのかそうでないのか判別できたり…
その中でもたった一つ、異質な家紋があると教えてくれました

家紋分かりますか?いぇす、六文銭。正式には六連銭=真田家の家紋である。親方様ぁぁぁぁぁ
墓の裏にも真田の文字が…徳川家の墓所と言ってもいいここに、なぜ宿敵の真田が…
じいさん曰く、本当にこれだけしかないらしい。割と最近の墓だから、別にしがらみとかなくて認められたのかな?
あ、すぐ近くには
⑲上田萬年
⑳円地文子 乙11-5

円地はまあ『女坂』とかで知っているのですが、父親(上田)も著名人だったとは…国文学者の中ではかなり知られた人物のようです。ううむ、まだまだ勉強不足…
ここ来たらついでに真田も見て行ってください。。。
あと墓や墓誌の文字ね。墓誌は名前と没年月日くらいしか書いてないんで目を通しますが、墓石に刻んである略歴って漢文なんですよね…しかも剥げて読みずらかったりでスルーしてまう。
「んなことしてると痛い目見るぞ。ついて来い」
そして向かったのが…前回紹介した高松凌雲の墓。いやじいさんそれさっき見たよ…と思ったら




緒方洪庵塾一橋公慶喜榎本武明五稜郭…うおおおおめっちゃ書いてあるやんけ…
しかも詳しく知っている人物なので、白文でも割と現代語訳ができる!初見の英文でもテーマが分かれば読みやすいのと同じか…
花柳寿輔の石碑の裏には花柳流を習得した人たちの名がずらああああああああああああああああああああああああああああああああっと刻んであったり。
大げさではなく、細かすぎて平面に見えるほど。スルー余裕でしたはい。
設置された当時は全国から集まってきて必死に自分の名前を探してたらしい。拷問に近い ちなみに今同じものを作ろうとすると、何倍もの大きさが必要な模様
…もうちょっと真面目に読むこともした方がよかったですね…
以上、じいさんのワンポイントでした。
渋沢に続き、普通は入れないシリーズ。
㉑阿部正弘

ペリー来航時の老中である。井伊直弼の2つ前ね。鎖国政策が終わり、新時代の改革を進めました。
阿部家ゾーンはとんでもなく広く、柵に囲まれてます。備後国藩主の家系であり、その墓もズラリと並ぶ。
ただ、やはり維持費うんぬんで半分は一般に譲ってます。バカ高い値段だと容易に想像できる
真ん中には柵の外からでもわかる、巨大な墓があります。それが正弘のかなー、と思ってカメラ構えたら
「違う!そりゃ初代の墓だ!左見ろ左!」
そこかいな!ってことで撮影したのが画像。神々しい写真になってしまったww

うむ、墓誌にはしっかりその名が。
さらにもう一つ、一般の墓の中には「浅野」の名が…
「浅野家って言ったら分かるよな?忠臣蔵の浅野と関係してる。なぜここに墓があるのか。浅野家の一人が阿部家に婿入りしたからだ。でも当の本人の墓は離れた場所にある。喧嘩別れしたらしいぞ」
えっ、マジかよ…初耳すぎる…
調べてみると、婿入りしたのは阿部正桓。函館戦争にも参加している模様。しかしその後、版籍奉還と廃藩置県のゴタゴタにより藩主としての地位が危うくなったようだ。この時に何かあったのかなー
ついでに、彼の子・正直は初代気象研究所所長らしい。どちらも乙9-9に眠ル…
そしてそして、まだ続くぞ…
正桓の二男、つまり正直の弟もいるのだ
㉒酒井家の墓 乙8-10

戦国大名として名が残り、江戸幕府でも要人として扱われた名家。
正直の弟…が手前一番右で見切れてるww酒井忠正です。実はJRAの三代目理事長だったりする
他には酒井美意子、忠興(ただおき)。そして、左最奥の忠邦について、じいさんが語りだした…
「この人の死因は水銀中毒だ。どうやら暗殺だったようだ。それも、少しずつ苦しませて殺したようで、死体は酷い有様だった。だからここには骨が埋められてない。代わりに、水銀が入った瓶が埋められているらしい」
怖すぎワロタ
死因も恐ろしいが、なぜ水銀埋めたし
ただ、、、ちょっと待ってくれ、これは事実なのか?軽く調べてみたが、そんなことは欠片も載っていないので、要検証である。
ううむ…世間には公にされていないのか…分かるのは26歳の若さで亡くなっていること…あれ?ガチっぽいぞ
これで阿部家と酒井家が繋がったわけだ。さあ酒井家がまだ続くぞー(白目)

天王寺墓地にもあるのだよ…これを目印にしてね。同域内に酒井忠匡(ただまさ)、忠晄(ただあきら)の墓が。。。
さっきの酒井家ゾーンとは違う家系だそうな。Wikipediaで家系図見たら頭痛がしたんで、考えるのをやめた 酒井氏でググるべし
さて、あとはひたすら歩きまわったところを書き連ねていく…前に、ここでいったん切ります;
続く…
そこで足元をよく見るように言われる。そこにあったのは…通貨だった
なんと敷石にくっきりと、当時のお金が埋まっているのである。これは是非現地で見ていただきたい。
「墓なんてのは、当時のものがいくらでも埋まってんだよ。俺はこの前寛永通宝見つけたから家に保管しといたよ」
らしいwwwマジかよ墓荒らしスキル身に着けたいわ…
さてまたここに戻ってきて詳しい説明を受ける

左が慶喜、右が妻・美賀子の墓である、と言ったのは前回通り。
加えて、それ以外の墓の紹介もしてくれました。
「慶喜の背後に2つあるのは、側室の中でも特に近しかった方のものだ」
多くの側室を抱えていた慶喜。その中でも、最期の瞬間を見届けた二人はここに眠っているそうです。

「左側に眠るのは、徳川慶光だ」
慶喜の孫にあたる。割と最近亡くなった方です。で、その両親にあたるのが

「右側に眠るのは、奥が徳川慶久、手前が妻・實枝子(みえこ)。
實枝子は有栖川家の娘で、徳川家に嫁入りしたのだ。
また、慶喜には沢山の子ができたが、そのほとんどが間もなく亡くなってしまった。9人の子供たちは右最奥の木の下にまとめて埋められている。
さらにその左にある墓には慶久の長女・慶子が埋められた」
名も刻まれていませんが、しっかりと子供たちの魂は眠っているようです。将軍家は子孫を残すのも大変ですね…
また、
「鳥居がないのは、慶喜家は儒教だったからだ。あの墓の形も儒教独特のものだから、中国人がここを訪れても違和感がないのは当然だ。むしろ日本人は不思議がる」
「明治政府が寛永寺を奪った時、上野駅前に合った墓をごっそりここに移してきた。なぜならジャマだから」
「慶喜の墓の敷地はもっと広かったが、今は縮小して家来の墓を置いている。なぜなら、いくら徳川家とはいえ、維持費がバカにならないからである」
などの話も。特に3つ目の「名家三代続かず」とも言うべき、墓の維持に関しては今回の旅の大きなテーマとなる…
そしてこの近くには
「慶喜の七女・浪子の墓がある。彼女は津山藩・松平家の斎に嫁入りしたんだが、そいつが蒸発しちまった。普通の家だったら名前は残してもらえねぇが、流石に徳川家と繋がりがあるから墓誌には刻んである。没年月日が書いてないのは、結局見つからなかったからだ」
成程面白い。確かに名前の上にぽっかり空白があるんですよね
「四男・厚の墓もある。こいつも松平家の妻をもらってる。松平慶永の娘・里子だ。
ここの墓誌だけにはしっかりと家族構成も書いてある。見ろ、四男と書いてあるだろう」
厚は議員としても活躍した人です。こう、しっかりと情報が書いてあるとありがたいww
「ここら辺一帯は、大奥の墓だったんだ。
だけどこの手の仕事は、遺族もいなくなったり管理しきれなくなったりする家系が多くなるわけだ。そうなると墓は撤去して、その土地を一般の人に貸してお金にする。そんなもんだから、今じゃ大奥の墓が固まってるところはほとんどない。ついこの前もトラックが墓石を運んで行ったよ…」
正に金の問題である。金がなければ畏れ敬われる墓もおさらばなのが現実。語るじいさんは少し寂しそうであった…
こんな感じで、やはり慶喜の周辺には関係者が多いようです。
…文字情報だけで申し訳ない。写真撮り忘れましたwwつい話に聞き入ってしまって…
慶喜周辺だけでお別れかな…と思ったら、どうやらまだまだ案内してくれるようだ。ずんずん進む。
「墓の維持と言えば、徳川家の中でも明暗が分かれているんだよ。他の御三卿の墓も連れてってやる」
八代将軍・吉宗から九代将軍・家重の間に確立した御三卿。田安・一橋・清水が分立したものです。
一橋家はご覧の通り、慶喜を中心とした立派な墓がズラリ。
田安家はというと、これも超立派な敷地に沢山並んでます。(写真撮り忘れた…)
「この家系は今もすんげー裕福なんだよ。寺側から敷地の縮小を求められても金積んで手を付けさせなかったくらいさ」
つまり金最強である。
一方の
⑬清水家 寛永寺墓地内

「御三卿で一番衰えたのは間違いなく清水家だ。ご覧のとおり、ほんの少ししか残されていない。御三卿でも世の流れには勝てないんだよ」
久しぶりの墓カウントはちょっと寂しい…立派な墓石ですが、敷地が狭いんでスルーしてしまいそうなほど。
さてさて徳川家を満喫したところで、他に連れて行ってほしいところあるかと聞かれたので、迷わずこの人の名を伝える!
⑭渋沢栄一 乙11-1

慶喜の家臣であり、国立銀行条例作成に尽力し、自ら第一国立銀行(現みずほ)頭取となり、東京慈江会、赤十字社設立等社会活動に奔走し、他にも数えきれないほどの実業家っぷりを発揮…
稀代の
ちなみに、戊辰戦争が一つ・上野戦争でボロボロになった寛永寺を再興したのも彼である。何だこの神は…
左が後妻、右が先妻の墓らしい。
以前、この前にもいくつか墓があったらしいです。それを移動させて広場?にする工事中なので、普通は入れない…はずが、工事のあんちゃんがじいさんの知り合いらしく、入れてもらうことにww

近くで拝めましたー。
裏にも墓が見えますが、全て渋沢家のゾーンです。こちらも厳重なガードがしてあります
広場ができたら印象が変わりそうですね。また来たいです。。。
渋沢関連でもう一つ。彼の前に、ある有名人の墓があったのですが、この工事ですっからかんになっている。
じいさんに尋ねるとすぐ案内してくれました。
⑮今村清之助 甲3-1

なんと澤田正二郎のすぐそばに移動していらした。全然気づかなかった…
彼はズバリ、成蹊大学創始者!そして両毛線、九州・関西鉄道、山陽鉄道の開通に関わった「鉄道王」である!鉄道好きもぜひ訪れてほしいところです。。。
渋沢栄一とは在る一大事業を果たしたので、墓を引き離すなど言語道断だと思うのだが…どうやら都は広場を増やしたいようです…
まあ代わりにかわいい汽車付きの石碑が追加されたのは見所ではあるが
成蹊大学が出てきましたが、大学創始者の墓もかなり多いですねー
⑯岸本辰雄 乙4-9

⑰宮城浩造 乙7-4

明治大学創立者三人集が二人。岸本先生が初代学長です。ちなみに設立当時は「明治法律学校」ということで、当時まだ珍しかった法学の学び舎でした。
ちなみにもう一人の創立者・矢代操(みさお)は青山墓地に眠ル
…この二つの墓には明治大学が設置した立札が置いてあります。流石明治、そこらへんには金を惜しまない。
⑱佐藤泰然 甲新16-24

順天堂大学の基礎を確立させた。高野長英や堀田正睦とも関わりがあるそうです。
ついでに、順天堂の開設に至らせた人物が養子の佐藤尚中で、ちょっと離れたところに墓有
…これは初めて知った…じいさんに「まだまだあめぇなぁ」と言われる俺w いやじいさんいくら歴史好きでもにわかなんでキツイっす;;;;
ついでに「墓を見る技術も身についてねぇなぁ」と一蹴ww
「家紋をよく見ろ」
「墓誌、墓石の文字を隅々まで読め」
「『院殿』とあったらとりあえず身分が高いと思っとけ」
いろいろご教授いただきました。
『院殿』は最高レヴェルの戒名ですが…谷中霊園ではそこかしこに見られますwwつまりそれほど権力者がたくさん眠ってるってことですよ…
だっていろんな地区の藩主がここに集まってきて、しかも何代も…そりゃ多くなりますわ。
はっきり言うと、谷中で著名人の墓巡りはキリがなさすぎて無謀。振り向けば院殿…
家紋はちょっと勉強すると面白いんですよ。同じ徳川家でも、功績残した人はその証としてビミョーーに違う家紋が渡されたり、聞いたことある苗字でも家紋で著名人なのかそうでないのか判別できたり…
その中でもたった一つ、異質な家紋があると教えてくれました

家紋分かりますか?いぇす、六文銭。正式には六連銭=真田家の家紋である。
墓の裏にも真田の文字が…徳川家の墓所と言ってもいいここに、なぜ宿敵の真田が…
じいさん曰く、本当にこれだけしかないらしい。割と最近の墓だから、別にしがらみとかなくて認められたのかな?
あ、すぐ近くには
⑲上田萬年
⑳円地文子 乙11-5

円地はまあ『女坂』とかで知っているのですが、父親(上田)も著名人だったとは…国文学者の中ではかなり知られた人物のようです。ううむ、まだまだ勉強不足…
ここ来たらついでに真田も見て行ってください。。。
あと墓や墓誌の文字ね。墓誌は名前と没年月日くらいしか書いてないんで目を通しますが、墓石に刻んである略歴って漢文なんですよね…しかも剥げて読みずらかったりでスルーしてまう。
「んなことしてると痛い目見るぞ。ついて来い」
そして向かったのが…前回紹介した高松凌雲の墓。いやじいさんそれさっき見たよ…と思ったら




緒方洪庵塾一橋公慶喜榎本武明五稜郭…うおおおおめっちゃ書いてあるやんけ…
しかも詳しく知っている人物なので、白文でも割と現代語訳ができる!初見の英文でもテーマが分かれば読みやすいのと同じか…
花柳寿輔の石碑の裏には花柳流を習得した人たちの名がずらああああああああああああああああああああああああああああああああっと刻んであったり。
大げさではなく、細かすぎて平面に見えるほど。スルー余裕でしたはい。
設置された当時は全国から集まってきて必死に自分の名前を探してたらしい。
…もうちょっと真面目に読むこともした方がよかったですね…
以上、じいさんのワンポイントでした。
渋沢に続き、普通は入れないシリーズ。
㉑阿部正弘

ペリー来航時の老中である。井伊直弼の2つ前ね。鎖国政策が終わり、新時代の改革を進めました。
阿部家ゾーンはとんでもなく広く、柵に囲まれてます。備後国藩主の家系であり、その墓もズラリと並ぶ。
ただ、やはり維持費うんぬんで半分は一般に譲ってます。
真ん中には柵の外からでもわかる、巨大な墓があります。それが正弘のかなー、と思ってカメラ構えたら
「違う!そりゃ初代の墓だ!左見ろ左!」
そこかいな!ってことで撮影したのが画像。神々しい写真になってしまったww

うむ、墓誌にはしっかりその名が。
さらにもう一つ、一般の墓の中には「浅野」の名が…
「浅野家って言ったら分かるよな?忠臣蔵の浅野と関係してる。なぜここに墓があるのか。浅野家の一人が阿部家に婿入りしたからだ。でも当の本人の墓は離れた場所にある。喧嘩別れしたらしいぞ」
えっ、マジかよ…初耳すぎる…
調べてみると、婿入りしたのは阿部正桓。函館戦争にも参加している模様。しかしその後、版籍奉還と廃藩置県のゴタゴタにより藩主としての地位が危うくなったようだ。この時に何かあったのかなー
ついでに、彼の子・正直は初代気象研究所所長らしい。どちらも乙9-9に眠ル…
そしてそして、まだ続くぞ…
正桓の二男、つまり正直の弟もいるのだ
㉒酒井家の墓 乙8-10

戦国大名として名が残り、江戸幕府でも要人として扱われた名家。
正直の弟…が手前一番右で見切れてるww酒井忠正です。実はJRAの三代目理事長だったりする
他には酒井美意子、忠興(ただおき)。そして、左最奥の忠邦について、じいさんが語りだした…
「この人の死因は水銀中毒だ。どうやら暗殺だったようだ。それも、少しずつ苦しませて殺したようで、死体は酷い有様だった。だからここには骨が埋められてない。代わりに、水銀が入った瓶が埋められているらしい」
怖すぎワロタ
死因も恐ろしいが、なぜ水銀埋めたし
ただ、、、ちょっと待ってくれ、これは事実なのか?軽く調べてみたが、そんなことは欠片も載っていないので、要検証である。
ううむ…世間には公にされていないのか…分かるのは26歳の若さで亡くなっていること…
これで阿部家と酒井家が繋がったわけだ。さあ酒井家がまだ続くぞー(白目)

天王寺墓地にもあるのだよ…これを目印にしてね。同域内に酒井忠匡(ただまさ)、忠晄(ただあきら)の墓が。。。
さっきの酒井家ゾーンとは違う家系だそうな。Wikipediaで家系図見たら頭痛がしたんで、考えるのをやめた 酒井氏でググるべし
さて、あとはひたすら歩きまわったところを書き連ねていく…前に、ここでいったん切ります;
続く…
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