2015-02-12(Thu)
暇人之歴史探訪 二.豪徳寺・松陰神社(前)
谷中の時もそうでしたが、歴史探訪するとかなり歩くんで疲れますね;翌日が辛い;
もう日曜に行く予定も立ててるので、溜まらないようにここらで更新を。。。
今回は豪徳寺周辺を散策しましたー。先週の火曜日、谷中の翌日。豪徳寺を中心に、意外と歴史が感じられる世田谷区。ちょっと歩けば著名な松陰神社もありますのよ。合わせて回ったので、2回に分けてお送りいたします。。。

ではれつごー

もう日曜に行く予定も立ててるので、溜まらないようにここらで更新を。。。
今回は豪徳寺周辺を散策しましたー。先週の火曜日、谷中の翌日。豪徳寺を中心に、意外と歴史が感じられる世田谷区。ちょっと歩けば著名な松陰神社もありますのよ。合わせて回ったので、2回に分けてお送りいたします。。。

ではれつごー

スタートは、小田急線豪徳寺駅。急行・快速急行は止まらないので注意
賑やかな商店街を抜けて豪徳寺へ向かいます。世田谷線の線路沿いに進めば分かりやすいです。

遭遇しました。短くて可愛い
宮の坂駅を目印にして東に進めば

ほい、あっさり豪徳寺到着です。谷中の寄り道っぷりと比べてスムーズ

なぜここが有名なのか…は、この画像を見て分かるでしょう。
そう、井伊直弼の墓があるのです。ではここらで解説を。。。
元は室町(戦国?)時代、世田谷城主が弘徳院という人物の菩提のために建てたもの。
江戸時代からは世田谷が彦根藩領となりました。つまり彦根藩主=井伊家の菩提寺になったということで、このとき「豪徳寺」に改号したという流れ。
割とシンプル。世田谷城については次回書きますね。
では入っていきましょー

いきなりどこぞの霊園で見たような碑と、

三重塔がお出迎え。どっちもでけええええええええええ
2006年に完成したばかりらしい。ん?でも10年近く前か…そうか、もう2006から10年か…(突然の鬱)
ちなみに碑は「忠正公神道碑」。井伊忠正について刻んでありまする。
井伊忠正=井伊直憲らしいんだけど、ちょっと調べ中。直憲の名しか知らんぞ…
彦根藩最後の藩主で、井伊直弼の次男ね。

世田谷区指定有形文化財:梵鐘。
延宝年間(江戸初期)からずっっっとここに伝えられているそうな

本堂。関東大震災で倒壊後、コンクリートで再建
この隣には書院があり、お守りやお土産が購入できます。

仏舎利塔

梅の季節ですねー。今行ったらもっと咲いてそう。

仏堂。中には入れないが、大権修利菩薩像・弥勒菩薩像・釈迦如来像・阿弥陀如来像・達磨大師像は有形文化財に登録されている。
彦根藩がここに来た時の藩主:井伊直孝を弔うために娘が造らせたらしい。ちなみに、「豪徳寺」の名は直孝の戒名に由来します。

井伊直弼墓に匹敵する、いやそれ以上に人気のスポット・招福庵。
福を招く…そんな動物と言えば…そう、招き猫を祀っています。ここは招き猫発祥の地なのです(一説ではあるが)
~招き猫伝説~
井伊直孝が手招きをする猫に導かれて寺を訪れたら、雷雨を避けて和尚さんからありがたい法談を聴くことができました。それを喜んだ直孝は、この寺を井伊家菩提寺とすることにしました。
現在は、願いがかなったお礼として招き猫を奉納する習慣が残っています。
おしまい
何を隠そう、井伊家を導いたのが招き猫なのである。招き猫すげえ。決してただ毛繕いしてただけだろとは言ってはいけない
殿の横には納められた招き猫が大量に…



多すぎワロタ

この半跏思惟像が猫を束ねるラスボスにしか見えない。思惟してるというか、威厳出すための頬杖ついてるみたいww

ちなみに豪徳寺駅の前にもいます。


至る所に猫。おみやげにちっこい置き物でもどうでせうか。
それではここから…墓ターーーーイム


国指定史跡:彦根藩主井伊家墓所へ
オーラ半端ない。では井伊家の軽い解説を
はっきりと歴史書に登場するのは南北朝時代から。あの今川家の配下にあったのですが、謀反の疑いでぶっ殺されたり、武田信玄からボコられたりとあまり大きくは出てきません。
転機は徳川四天王と呼ばれた井伊直政の時代。徳川家康に仕え、関ケ原の戦いでも結果を残し、初代彦根藩主に。
それに続く二代目が井伊直孝。もう何度も書きました、豪徳寺を井伊家菩提寺にした人ね。ここで譜代大名にまで昇格。大坂夏の陣で名を残しています
そこから先はご存知の通り、幕末の井伊直弼まで大老職を何人も排出する文句なしの名家。。。
この豪徳寺墓地には藩主・正室らの他、早死にしてしまった子供たち、寺の伽藍造営に携わった人びと、江戸でなくなった藩主らの墓もあるので、合計で300あまりの墓がズラリ。
ちなみに彦根藩井伊家墓所は他の場所にもあります。かなり離れていますが…
①井伊直弼

ほい、いいなおちゅけ。13代藩主。Wikipediaだと15代藩主になっているが、これは再封(2度同じ人物が同じ役職に就くこと)をカウントしているから…か?
日米修好通商条約他安政の5五国条約に勅許を得ず勝手に調印し、将軍継嗣問題で揺れていた情勢を安政の大獄で吉田松陰先生、大木喬任先生、頼三木三郎先生らを斬って黙らせ、そして桜田門外の変で散った、何とも悪役にしやすい男。何回大河ドラマで殺されてるか分からん
やはりここには花が。まだまだ存在感を放っております
➊桜田殉難八士之碑

これ、井伊直弼墓の後ろにあるんだけど、何も説明がないんですよ。正面の文字読めればすぐ理解できるのですけど、ハゲや苔のせいでスルーする可能性もあるので注意
裏面には 河西忠左衛門・小河原秀之丞・沢村車六・永田太郎兵衛・加田九郎太・岩崎徳之進・越石源次郎・日下部三郎右衛門 の文字が。皆 直弼を守ろうとして殉職しました…
②井伊直時

直孝の4男。ここで一番古い墓らしいです。以降はこの墓に合わせた形のものを作るようになったそうだ
③井伊直憲

入った時あったデカい石碑に書いてあった、最後の彦根藩主
④井伊直孝

そしてこちらが件の猫に招かれた男
…とまあ、ご覧のとおり墓自体は素人目では全部同じに見えて判別できないので、ベタベタ貼ってても退屈ですねww
先ほどあげたものに関連する人だけピックアップしました。一応、墓所入口には細かい案内あるから見てね
さて
招き猫も見たし
井伊家の墓所も見たし
次の目的地に行く
わけがないんだよなぁ…
まだ著名人の墓はあるぞ!しかも谷中と違って(強調)分かりやすいぞ!
⑤日下部鳴鶴

書道を嗜むならその名声を知らねばならぬ、「明治の三筆」とまで呼ばれた書家(本名:東作)
墓は井伊家墓所に向かう道ですぐ見つかるはず
彦根藩士の家に生まれたので、おそらくここに眠っているでしょう。ちなみに、大久保利通に仕えていたこともあります。そういえば紀尾井坂の変って谷中の時に出てきましたね。繋がった。。。
もっと言うと、この人の字で刻まれた石碑は莫大な量で、実は谷中の石碑のいくつかはこの人の字だったりする。
さっきの桜田門外の碑もこの人。墓の周りにも色々な碑がありますよー
⑥衛藤即応

仏教学者らしい。ごめんなさいあまり知らないです…
井伊家墓所に入ろうかというところで右を見ればすぐ発見できます
駒大の教授を務めていたらしく、墓誌にはそれに関連したことが読めました
⑦岡本黄石

彦根藩に仕えながらも尊王攘夷派であった珍しい人物。漢詩人として名も通っています
鳴鶴先生の墓通り過ぎて左まがったところ
❷瘞(えい)首塚碑

戊辰戦争が一つ・小山戦争(=宇都宮城の戦い)で戦死した11人を祀る。その相手は伝習隊。あの大鳥圭介が指揮官でした…戦いには新選組も参加していますよ
岡本の墓の近くにある階段を上がったところ。ちょっと怖い雰囲気…
階段横には石碑がありますが、これも鳴鶴せんs(
⑧中島健蔵

近代~現代文学の発展に大きく寄与した文学者。表現の自由や著作権に関する話題になるとたまに出てくる
岡本の墓の奥側
⑨中村吉蔵

劇作家。「井伊大老の死」という演目を書いている関係でここに?
井伊家墓所に向かう道の右手
⑩吉江喬松

ツルゲーネフやラシーヌの作品を翻訳した文学者。
井伊家墓所に向かう道の右手
⑪堀悌吉

海軍のいち軍人であるが、山本五十六(同期)ら数々の著名人から評価された。この人の思想は調べれば調べるほど面白い。当時としては特異な軍人です。三笠に乗って日本海海戦に挑んだりも
…この墓は自力で探そうとすると相当厳しいです。衛藤の墓を通り過ぎて最初のT字路を右に曲がってずっと直進した先道沿いの右側に…って滅茶苦茶な説明しかできんww
完全に一般の墓と同じ扱いなので、どうしても見たければ寺の人に聞くのが楽かと。。。
あと一つ、絶対に見たい墓がありました。
名は葦原金次郎。こいつはズバリ、日本で最も有名な皇位僭称(せんしょう)者である。
僭称=身分を名乗ること。皇位を名乗るなんてことを一般人がすることはあり得ないので、つまり自称天皇な人です。
言っちゃえば精神病だった訳ですが、これがまた面白いことに、民衆から愛される狂言者だったそうです。その豪快な物言い(自称)は新聞でも報道され、「葦原将軍」なんて言われたことが記録されています。筒井康隆の短編で、彼をモデルにした作品があったりも。。。
ちなみに入院していた場所は、現在も精神科として有名な松沢病院。A級戦犯を回避した大川周明も入院したところね
で、その墓は鳴鶴先生の近くにあるはず…だったが、ない
現地でスマホ使って調べまくりましたが…2013年にはあったとの記録が出てきました。しかしそれ以前も何度か動かされているようで…いまいち存在があやふや。
墓も円柱型でちっっっこいものらしいので、見落としている可能性もありましたが…不自然な空白が残っていたので、おそらく撤去されたか動かされたかのどちらかだと思います。
谷中のときといい、著名な人物でもポンポン動かしてしまうのは勘弁。しかも、ちょっと変わり種の人物ですから一度目にしたかったのですが…残念。復活することを祈ります。。。
…続く
賑やかな商店街を抜けて豪徳寺へ向かいます。世田谷線の線路沿いに進めば分かりやすいです。

遭遇しました。短くて可愛い
宮の坂駅を目印にして東に進めば

ほい、あっさり豪徳寺到着です。

なぜここが有名なのか…は、この画像を見て分かるでしょう。
そう、井伊直弼の墓があるのです。ではここらで解説を。。。
元は室町(戦国?)時代、世田谷城主が弘徳院という人物の菩提のために建てたもの。
江戸時代からは世田谷が彦根藩領となりました。つまり彦根藩主=井伊家の菩提寺になったということで、このとき「豪徳寺」に改号したという流れ。
割とシンプル。世田谷城については次回書きますね。
では入っていきましょー

いきなりどこぞの霊園で見たような碑と、

三重塔がお出迎え。どっちもでけええええええええええ
2006年に完成したばかりらしい。ん?でも10年近く前か…そうか、もう2006から10年か…(突然の鬱)
ちなみに碑は「忠正公神道碑」。井伊忠正について刻んでありまする。
井伊忠正=井伊直憲らしいんだけど、ちょっと調べ中。直憲の名しか知らんぞ…
彦根藩最後の藩主で、井伊直弼の次男ね。

世田谷区指定有形文化財:梵鐘。
延宝年間(江戸初期)からずっっっとここに伝えられているそうな

本堂。関東大震災で倒壊後、コンクリートで再建
この隣には書院があり、お守りやお土産が購入できます。

仏舎利塔

梅の季節ですねー。今行ったらもっと咲いてそう。

仏堂。中には入れないが、大権修利菩薩像・弥勒菩薩像・釈迦如来像・阿弥陀如来像・達磨大師像は有形文化財に登録されている。
彦根藩がここに来た時の藩主:井伊直孝を弔うために娘が造らせたらしい。ちなみに、「豪徳寺」の名は直孝の戒名に由来します。

井伊直弼墓に匹敵する、いやそれ以上に人気のスポット・招福庵。
福を招く…そんな動物と言えば…そう、招き猫を祀っています。ここは招き猫発祥の地なのです(一説ではあるが)
~招き猫伝説~
井伊直孝が手招きをする猫に導かれて寺を訪れたら、雷雨を避けて和尚さんからありがたい法談を聴くことができました。それを喜んだ直孝は、この寺を井伊家菩提寺とすることにしました。
現在は、願いがかなったお礼として招き猫を奉納する習慣が残っています。
おしまい
何を隠そう、井伊家を導いたのが招き猫なのである。招き猫すげえ。
殿の横には納められた招き猫が大量に…



多すぎワロタ

この半跏思惟像が猫を束ねるラスボスにしか見えない。思惟してるというか、威厳出すための頬杖ついてるみたいww

ちなみに豪徳寺駅の前にもいます。


至る所に猫。おみやげにちっこい置き物でもどうでせうか。
それではここから…墓ターーーーイム


国指定史跡:彦根藩主井伊家墓所へ
オーラ半端ない。では井伊家の軽い解説を
はっきりと歴史書に登場するのは南北朝時代から。あの今川家の配下にあったのですが、謀反の疑いでぶっ殺されたり、武田信玄からボコられたりとあまり大きくは出てきません。
転機は徳川四天王と呼ばれた井伊直政の時代。徳川家康に仕え、関ケ原の戦いでも結果を残し、初代彦根藩主に。
それに続く二代目が井伊直孝。もう何度も書きました、豪徳寺を井伊家菩提寺にした人ね。ここで譜代大名にまで昇格。大坂夏の陣で名を残しています
そこから先はご存知の通り、幕末の井伊直弼まで大老職を何人も排出する文句なしの名家。。。
この豪徳寺墓地には藩主・正室らの他、早死にしてしまった子供たち、寺の伽藍造営に携わった人びと、江戸でなくなった藩主らの墓もあるので、合計で300あまりの墓がズラリ。
ちなみに彦根藩井伊家墓所は他の場所にもあります。かなり離れていますが…
①井伊直弼

ほい、いいなおちゅけ。13代藩主。Wikipediaだと15代藩主になっているが、これは再封(2度同じ人物が同じ役職に就くこと)をカウントしているから…か?
日米修好通商条約他安政の5五国条約に勅許を得ず勝手に調印し、将軍継嗣問題で揺れていた情勢を安政の大獄で吉田松陰先生、大木喬任先生、頼三木三郎先生らを斬って黙らせ、そして桜田門外の変で散った、何とも悪役にしやすい男。
やはりここには花が。まだまだ存在感を放っております
➊桜田殉難八士之碑

これ、井伊直弼墓の後ろにあるんだけど、何も説明がないんですよ。正面の文字読めればすぐ理解できるのですけど、ハゲや苔のせいでスルーする可能性もあるので注意
裏面には 河西忠左衛門・小河原秀之丞・沢村車六・永田太郎兵衛・加田九郎太・岩崎徳之進・越石源次郎・日下部三郎右衛門 の文字が。皆 直弼を守ろうとして殉職しました…
②井伊直時

直孝の4男。ここで一番古い墓らしいです。以降はこの墓に合わせた形のものを作るようになったそうだ
③井伊直憲

入った時あったデカい石碑に書いてあった、最後の彦根藩主
④井伊直孝

そしてこちらが件の猫に招かれた男
…とまあ、ご覧のとおり墓自体は素人目では全部同じに見えて判別できないので、ベタベタ貼ってても退屈ですねww
先ほどあげたものに関連する人だけピックアップしました。一応、墓所入口には細かい案内あるから見てね
さて
招き猫も見たし
井伊家の墓所も見たし
次の目的地に行く
わけがないんだよなぁ…
まだ著名人の墓はあるぞ!しかも谷中と違って(強調)分かりやすいぞ!
⑤日下部鳴鶴

書道を嗜むならその名声を知らねばならぬ、「明治の三筆」とまで呼ばれた書家(本名:東作)
墓は井伊家墓所に向かう道ですぐ見つかるはず
彦根藩士の家に生まれたので、おそらくここに眠っているでしょう。ちなみに、大久保利通に仕えていたこともあります。そういえば紀尾井坂の変って谷中の時に出てきましたね。繋がった。。。
もっと言うと、この人の字で刻まれた石碑は莫大な量で、実は谷中の石碑のいくつかはこの人の字だったりする。
さっきの桜田門外の碑もこの人。墓の周りにも色々な碑がありますよー
⑥衛藤即応

仏教学者らしい。ごめんなさいあまり知らないです…
井伊家墓所に入ろうかというところで右を見ればすぐ発見できます
駒大の教授を務めていたらしく、墓誌にはそれに関連したことが読めました
⑦岡本黄石

彦根藩に仕えながらも尊王攘夷派であった珍しい人物。漢詩人として名も通っています
鳴鶴先生の墓通り過ぎて左まがったところ
❷瘞(えい)首塚碑

戊辰戦争が一つ・小山戦争(=宇都宮城の戦い)で戦死した11人を祀る。その相手は伝習隊。あの大鳥圭介が指揮官でした…戦いには新選組も参加していますよ
岡本の墓の近くにある階段を上がったところ。ちょっと怖い雰囲気…
階段横には石碑がありますが、これも鳴鶴せんs(
⑧中島健蔵

近代~現代文学の発展に大きく寄与した文学者。表現の自由や著作権に関する話題になるとたまに出てくる
岡本の墓の奥側
⑨中村吉蔵

劇作家。「井伊大老の死」という演目を書いている関係でここに?
井伊家墓所に向かう道の右手
⑩吉江喬松

ツルゲーネフやラシーヌの作品を翻訳した文学者。
井伊家墓所に向かう道の右手
⑪堀悌吉

海軍のいち軍人であるが、山本五十六(同期)ら数々の著名人から評価された。この人の思想は調べれば調べるほど面白い。当時としては特異な軍人です。三笠に乗って日本海海戦に挑んだりも
…この墓は自力で探そうとすると相当厳しいです。衛藤の墓を通り過ぎて最初のT字路を右に曲がってずっと直進した先道沿いの右側に…って滅茶苦茶な説明しかできんww
完全に一般の墓と同じ扱いなので、どうしても見たければ寺の人に聞くのが楽かと。。。
あと一つ、絶対に見たい墓がありました。
名は葦原金次郎。こいつはズバリ、日本で最も有名な皇位僭称(せんしょう)者である。
僭称=身分を名乗ること。皇位を名乗るなんてことを一般人がすることはあり得ないので、つまり自称天皇な人です。
言っちゃえば精神病だった訳ですが、これがまた面白いことに、民衆から愛される狂言者だったそうです。その豪快な物言い(自称)は新聞でも報道され、「葦原将軍」なんて言われたことが記録されています。筒井康隆の短編で、彼をモデルにした作品があったりも。。。
ちなみに入院していた場所は、現在も精神科として有名な松沢病院。A級戦犯を回避した大川周明も入院したところね
で、その墓は鳴鶴先生の近くにあるはず…だったが、ない
現地でスマホ使って調べまくりましたが…2013年にはあったとの記録が出てきました。しかしそれ以前も何度か動かされているようで…いまいち存在があやふや。
墓も円柱型でちっっっこいものらしいので、見落としている可能性もありましたが…不自然な空白が残っていたので、おそらく撤去されたか動かされたかのどちらかだと思います。
谷中のときといい、著名な人物でもポンポン動かしてしまうのは勘弁。しかも、ちょっと変わり種の人物ですから一度目にしたかったのですが…残念。復活することを祈ります。。。
…続く
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