2015-02-16(Mon)
暇人之歴史探訪 二.豪徳寺・松陰神社(後)
1万ヒットいったー。拍手もたくさんありがとうございます。突然の歴史探訪開始でいよいよ何ブログなのか分からなくなってきた、謎の場所ですがこれからもよろしくお願いいたします。
当初は1年で辞める予定でしたが…たぶんまだ続きます。たぶん。
…で、いきなり謝罪。前回の記事、【完全版】とか言っといて、最後の墓の人物名が消えてました…
タグが変な形になってたので…申し訳ない。堀悌吉(ほりていきち)、覚えといてください。。。

では続き、れっつらー

当初は1年で辞める予定でしたが…たぶんまだ続きます。たぶん。
…で、いきなり謝罪。前回の記事、【完全版】とか言っといて、最後の墓の人物名が消えてました…
タグが変な形になってたので…申し訳ない。堀悌吉(ほりていきち)、覚えといてください。。。

では続き、れっつらー

前回、豪徳寺は世田谷城主が弘徳院という人物の菩提のために建てたもの、と書きました。
その世田谷城の跡、世田谷城址公園は豪徳寺から南に進めばすぐです。
最近タモリ倶楽部で特集された、マニア臭溢れる空間…
え?世田谷に城?と思うかもしれませんが、建てたのは吉良氏。武士の名家でもちろん、赤穂事件の吉良上野介(吉良吉義)の家系ですよ。
室町時代に建てられ代々吉良家が継いだものの、豊臣秀吉による小田原征伐で敗北。ぶんどられてすぐに廃城になってます。なので、秀吉のことを詳しく調べてると必ず出てきます。影薄いけど…



現在はこんな感じで、土塁・堀・城郭の跡が残されています。
知名度は薄いかもしれませんが、ここまで綺麗に跡が残っているのは見事という他ない。特に堀の迫力は是非実感していただきたい。
ネットで検索するとかなり面白い情報も転がっていますよー。遠藤周作が中世城郭に興味を持ったきっかけの城であるとか…周作先生は世田谷に住んた時期があったのですね
世田谷区よ、どうか後世までこの遺構を残しておくれよ…
さて東へ東へ歩いていくと、世田谷区役所やら

国士舘大学/高校やらが見えてきまする。すんげー綺麗なキャンパスだなぁ
その先の若林公園の横が

ほい着きました、松陰神社です。
祀られているのはご存知吉田松陰。タイムリーなことに彼の妹が大河ドラマの主人公になってますね。松陰主役でいいじゃん
松陰神社自体は2つありあす。墓所があるここと、松陰の生誕地・萩。
松陰を祀っているので、神社は墓より後にできたものです。
井伊直弼による安政の大獄で松陰が処刑。数年後、小塚原の回向院にあった墓を門下生がここに移してきて、その後神社が造られました。
回向院ってあれね。谷中で出てきた高橋お伝とか、鼠小僧とか山東京伝とか竹本義太夫とかの墓があるところね。
まあそれはいいとして、井伊直弼と吉田松陰、切っても切れない関係の二人がこんな近くに眠っているということに思わず笑みが浮かぶ。何の因果なんだこれは…
さあ中に入ろう

おぅ、早速先生がご登場。明治時代に造られたものを元に、2年前完成したばかりらしい。
❸徳富蘇峰植樹の碑

碑だ!こんなところに碑が!(はしゃぐ)
蘇峰は門下生ではありませんが、『吉田松陰』という本を著しています。その際植樹したそうです。
徳富蘇峰と弟の徳富蘆花は『八重の桜』でも出てきた気がする。世間的には名のある作品残してる蘆花の方が有名なのだろうか。
蘇峰はジャーナリスト界のレジェンドね。
❹松陰神社道の道標

❸の隣にある。昔は世田谷通りにあったそうですが、工事でこっちに移した模様。
なんてことないなーと思ったら、贈ったのが乃木希典らしい。こいつどこにでも出てくるな
この2つは水盤の後ろに隠れていてスルーされまくりなんで、見て行ってあげてください…

おじさんが立ってて何かあるのかなーと思ったら、梅見て一句捻ってただけでしたww
でも可愛い。豪徳寺より日が当たるからなのか、多く咲いてる。

本堂へ。ここで初詣済ませました。元旦はあの座間だったんで、行く機会を逃してましたww
あとおみくじも引いといたよー。出会いは…よし、いける。頼むよ(神に一任)

萩には松下村塾が保存されていて、その模造。ここで 伊藤博文・山形有朋・高杉晋作・山田顕義・久坂玄瑞…他、幾人もの偉大な者たちが学んだと…

一体どんな教育をされていたのですか、先生…
本堂の前には石燈籠が幾つも並んでいるのですが、これは門下生から献上されたもの。

足にはそれぞれ誰によって贈られたかが刻まれています。これは伊藤博文から。一番下の4文字が読めるでしょうか…
全32基、32名の名が。井上馨、桂太郎、青木周蔵、野村靖、寺内正毅…錚々たる名が並ぶのは当然…

さてここから吉田松陰先生他烈士墓所ということで…墓の時間だああああああああああ
前述の通り、吉田松陰の墓は回向院から移してきたもの。後に、他の安政の大獄の刑死者と、幕末~明治期に尽力した人々の墓がいくつか移ってきています。
しかし、幕府軍が起こした長州征伐(尊攘派長州藩処分を目的とした出兵)で墓は倒壊…それも木戸孝允らが協力して再度立て直しています。それが今あるってことかな?
画像の鳥居も木戸孝允寄進。木戸は「維新の三傑」と呼ばれた長州のリーダー的存在。桂小五郎の名でも通ってますね。昔の人は名前の変遷が複雑…
⑫吉田松陰

というわけで、こちらが松陰先生。
子供のころから優秀で、外国のことも積極的に学びに出、しかしその行動力が災いして何度も捕まり最後は井伊直弼の手によって処刑。実は暗殺計画とか、かなりおっかないことをやろうとしていたり。享年30。
あ、ちなみに松下村塾の設立者はこの人じゃないのでお気をつけて。よく間違える、ドヤ顔で語ってはいけないこと。「叔父から引き継いで開いた」と言いませう。
あと松下村塾の塾生もなかなか覚え辛い。そうっぽい人が違ったりするんで…
⑬小林良典

安政の大獄で連座。同じく回向院から移る
⑭来原良蔵

松陰や木戸孝允とも交流を持つが、外国公使館襲撃に失敗し自害。
芝の青松寺から移される。青松寺は昨日行ったのでまた詳しく書きます。
妻の墓も敷地内にあります
⑮頼三樹三郎

らい みきざぶろう ね。安政の大獄刑死者の中では著名な方。
高名な歴史学者・頼山陽の三男。儒学者であるが、バリバリの尊攘派。幕府に徹底マークされた模様
⑯福原信冬

英国公使館を焼いたり、いろいろ過激すぎる尊攘派。自害しこの地へ
❹長州藩邸没収事件関係者慰霊碑

禁門の変(長州藩が幕府の政治体制を批判し排除しようと京都で挙兵した事件。これが原因で長州征伐される)の後、長州の人々は藩邸を取られ、拘束されてしまった。その多くは病死してしまい、その人たちを祀った碑。48人が刻まれる…
長州もワイルドすぎるが、幕府も怖い。怖すぎる
⑰綿貫直秀

藩邸没収騒動で争い自死。ううむ…よく知らんぞ…
ここまで、松陰先生付近。
その周りもいろいろ
⑱野村靖・野村花子

幕末の行動よりも、政治家としての顔の方が知られているのではなかろうか。そう、岩倉使節団の一員である。他、内務大臣、逓信大臣等。夫婦とともに、遺言によりここへ埋葬
⑲中谷正亮

あまり知られていないが、松下村塾にとっては超重要人物。高杉晋作や久坂玄瑞を引き入れたのはこの人だとされる。
松陰処刑後も動こうとしたが病死。ちなみに、後に何度も総理大臣に就く桂太郎の叔父である
❺長州藩第四隊戦死者招魂之碑

桂太郎が建てた模様。戊辰戦争の戦死者なのか、それ以前のなのかはちょっと分からなかった。
彼はこの部隊の二番隊司令を命じられたらしい。確か長州征伐で名前が残ってるはず


徳川家寄進の石燈籠と水盤。墓ぶっ壊しちゃってごめんなさいの意をこめて贈られました
…以上、松陰神社でした。細かいところにまで案内が行き届いており素晴らしい。ドマイナーな人物でも調べるきっかけとなりうるので助かります。。。
モロ受験シーズンだったので、やはり参拝者は多かったです。学生同士で来てる子もいましたけど、親御さんが祈りまくってる姿を見てほっこり。
あ、これから受験生、特に大学入試日本史やるやつはここ来るといいんじゃないの。幕末情勢と長州藩の人物覚えられるよ
で、もう一個、日本史やってるやつは反応しなくちゃいけないのがある。
さっきからチラチラ登場している桂太郎である。
受験生は当然知ってるというか知らなかったら今すぐ受験を辞めろレベルの人物だが、なんと墓がここにある
正確に言うと、境内ではなく若林公園内なのだが。遺言でこの地に埋葬された。
なぜここかは恐らく前述の通り、叔父の中谷正亮が松陰神社と深い関わりを持っていたからだと考えられる。
我が国の総理大臣墓がこんな身近に…ということで楽しみにしていました
が
⑳桂太郎


入れなかったぞこの野郎(激怒)
敷地があるのだが、そこまでの道に鉄門が固く閉ざされて…
開けちゃおうかなーと思ったけど、やめときました…もう(ズームするしか)ないじゃん…
たまに閉まってるみたいですけど、そのたまににあたってしまった。無念。
というか、案内板が全くなくて笑えるよ!どうやら敷地内にあるのだが、いやいや、その敷地草で見えないから!入口に立てようよ!
しかもその道がどう考えても墓に通じる道には見えないし、誘導する気ゼロ。RPGのボーナスゾーンへの道じゃないんだからさ、そんなに隠さなくても…
なぜだ…そんなに入って欲しくないのか…?総理大臣だぞ…陸軍大臣だぞ…こんなひっそりとしていていいのか…?
解せないまま豪徳寺方面へ戻っていく。
ここで、思ったより時間が余ったためもう一つ、

世田谷八幡宮へ寄り道。世田谷線宮の坂駅の目の前。
源義家が訪れたことで名を遺しています。義家の通称は「八幡太郎」。八幡あるところ、どこにでも現れる気がする


じゃん。力石と土俵。相撲の勝ち負けも占いの一種だった名残り。
今でも東京農大相撲部が訪れるのですよー。歩いて15分くらいのところにありますね
~完~
以上。説明書きあると大分書くのが楽ww数人、分からなさすぎる人にぶちあたりましたが、どうにかなった。
実際に歩いていると分かりますけど、この工程、超、楽です。ゆっくり回っても全然時間かからないので、午後の数時間使ってお散歩気分でも余裕。ちょっと頑張れば下北沢ぐらいまで行けるし。
明治維新を見ることができず散った因縁の二人を追うこのコース、どうでしょうか。
…次回は世田谷城でちらっとでてきた場所に行ったことを…
では。
その世田谷城の跡、世田谷城址公園は豪徳寺から南に進めばすぐです。
最近タモリ倶楽部で特集された、マニア臭溢れる空間…
え?世田谷に城?と思うかもしれませんが、建てたのは吉良氏。武士の名家でもちろん、赤穂事件の吉良上野介(吉良吉義)の家系ですよ。
室町時代に建てられ代々吉良家が継いだものの、豊臣秀吉による小田原征伐で敗北。ぶんどられてすぐに廃城になってます。なので、秀吉のことを詳しく調べてると必ず出てきます。影薄いけど…



現在はこんな感じで、土塁・堀・城郭の跡が残されています。
知名度は薄いかもしれませんが、ここまで綺麗に跡が残っているのは見事という他ない。特に堀の迫力は是非実感していただきたい。
ネットで検索するとかなり面白い情報も転がっていますよー。遠藤周作が中世城郭に興味を持ったきっかけの城であるとか…周作先生は世田谷に住んた時期があったのですね
世田谷区よ、どうか後世までこの遺構を残しておくれよ…
さて東へ東へ歩いていくと、世田谷区役所やら

国士舘大学/高校やらが見えてきまする。すんげー綺麗なキャンパスだなぁ
その先の若林公園の横が

ほい着きました、松陰神社です。
祀られているのはご存知吉田松陰。タイムリーなことに彼の妹が大河ドラマの主人公になってますね。
松陰神社自体は2つありあす。墓所があるここと、松陰の生誕地・萩。
松陰を祀っているので、神社は墓より後にできたものです。
井伊直弼による安政の大獄で松陰が処刑。数年後、小塚原の回向院にあった墓を門下生がここに移してきて、その後神社が造られました。
回向院ってあれね。谷中で出てきた高橋お伝とか、鼠小僧とか山東京伝とか竹本義太夫とかの墓があるところね。
まあそれはいいとして、井伊直弼と吉田松陰、切っても切れない関係の二人がこんな近くに眠っているということに思わず笑みが浮かぶ。何の因果なんだこれは…
さあ中に入ろう

おぅ、早速先生がご登場。明治時代に造られたものを元に、2年前完成したばかりらしい。
❸徳富蘇峰植樹の碑

碑だ!こんなところに碑が!(はしゃぐ)
蘇峰は門下生ではありませんが、『吉田松陰』という本を著しています。その際植樹したそうです。
徳富蘇峰と弟の徳富蘆花は『八重の桜』でも出てきた気がする。世間的には名のある作品残してる蘆花の方が有名なのだろうか。
蘇峰はジャーナリスト界のレジェンドね。
❹松陰神社道の道標

❸の隣にある。昔は世田谷通りにあったそうですが、工事でこっちに移した模様。
なんてことないなーと思ったら、贈ったのが乃木希典らしい。
この2つは水盤の後ろに隠れていてスルーされまくりなんで、見て行ってあげてください…

おじさんが立ってて何かあるのかなーと思ったら、梅見て一句捻ってただけでしたww
でも可愛い。豪徳寺より日が当たるからなのか、多く咲いてる。

本堂へ。ここで初詣済ませました。元旦はあの座間だったんで、行く機会を逃してましたww
あとおみくじも引いといたよー。出会いは…よし、いける。頼むよ(神に一任)

萩には松下村塾が保存されていて、その模造。ここで 伊藤博文・山形有朋・高杉晋作・山田顕義・久坂玄瑞…他、幾人もの偉大な者たちが学んだと…

一体どんな教育をされていたのですか、先生…
本堂の前には石燈籠が幾つも並んでいるのですが、これは門下生から献上されたもの。

足にはそれぞれ誰によって贈られたかが刻まれています。これは伊藤博文から。一番下の4文字が読めるでしょうか…
全32基、32名の名が。井上馨、桂太郎、青木周蔵、野村靖、寺内正毅…錚々たる名が並ぶのは当然…

さてここから吉田松陰先生他烈士墓所ということで…墓の時間だああああああああああ
前述の通り、吉田松陰の墓は回向院から移してきたもの。後に、他の安政の大獄の刑死者と、幕末~明治期に尽力した人々の墓がいくつか移ってきています。
しかし、幕府軍が起こした長州征伐(尊攘派長州藩処分を目的とした出兵)で墓は倒壊…それも木戸孝允らが協力して再度立て直しています。それが今あるってことかな?
画像の鳥居も木戸孝允寄進。木戸は「維新の三傑」と呼ばれた長州のリーダー的存在。桂小五郎の名でも通ってますね。昔の人は名前の変遷が複雑…
⑫吉田松陰

というわけで、こちらが松陰先生。
子供のころから優秀で、外国のことも積極的に学びに出、しかしその行動力が災いして何度も捕まり最後は井伊直弼の手によって処刑。実は暗殺計画とか、かなりおっかないことをやろうとしていたり。享年30。
あ、ちなみに松下村塾の設立者はこの人じゃないのでお気をつけて。よく間違える、ドヤ顔で語ってはいけないこと。「叔父から引き継いで開いた」と言いませう。
あと松下村塾の塾生もなかなか覚え辛い。そうっぽい人が違ったりするんで…
⑬小林良典

安政の大獄で連座。同じく回向院から移る
⑭来原良蔵

松陰や木戸孝允とも交流を持つが、外国公使館襲撃に失敗し自害。
芝の青松寺から移される。青松寺は昨日行ったのでまた詳しく書きます。
妻の墓も敷地内にあります
⑮頼三樹三郎

らい みきざぶろう ね。安政の大獄刑死者の中では著名な方。
高名な歴史学者・頼山陽の三男。儒学者であるが、バリバリの尊攘派。幕府に徹底マークされた模様
⑯福原信冬

英国公使館を焼いたり、いろいろ過激すぎる尊攘派。自害しこの地へ
❹長州藩邸没収事件関係者慰霊碑

禁門の変(長州藩が幕府の政治体制を批判し排除しようと京都で挙兵した事件。これが原因で長州征伐される)の後、長州の人々は藩邸を取られ、拘束されてしまった。その多くは病死してしまい、その人たちを祀った碑。48人が刻まれる…
長州もワイルドすぎるが、幕府も怖い。怖すぎる
⑰綿貫直秀

藩邸没収騒動で争い自死。ううむ…よく知らんぞ…
ここまで、松陰先生付近。
その周りもいろいろ
⑱野村靖・野村花子

幕末の行動よりも、政治家としての顔の方が知られているのではなかろうか。そう、岩倉使節団の一員である。他、内務大臣、逓信大臣等。夫婦とともに、遺言によりここへ埋葬
⑲中谷正亮

あまり知られていないが、松下村塾にとっては超重要人物。高杉晋作や久坂玄瑞を引き入れたのはこの人だとされる。
松陰処刑後も動こうとしたが病死。ちなみに、後に何度も総理大臣に就く桂太郎の叔父である
❺長州藩第四隊戦死者招魂之碑

桂太郎が建てた模様。戊辰戦争の戦死者なのか、それ以前のなのかはちょっと分からなかった。
彼はこの部隊の二番隊司令を命じられたらしい。確か長州征伐で名前が残ってるはず


徳川家寄進の石燈籠と水盤。墓ぶっ壊しちゃってごめんなさいの意をこめて贈られました
…以上、松陰神社でした。細かいところにまで案内が行き届いており素晴らしい。ドマイナーな人物でも調べるきっかけとなりうるので助かります。。。
モロ受験シーズンだったので、やはり参拝者は多かったです。学生同士で来てる子もいましたけど、親御さんが祈りまくってる姿を見てほっこり。
あ、これから受験生、特に大学入試日本史やるやつはここ来るといいんじゃないの。幕末情勢と長州藩の人物覚えられるよ
で、もう一個、日本史やってるやつは反応しなくちゃいけないのがある。
さっきからチラチラ登場している桂太郎である。
受験生は当然知ってるというか知らなかったら今すぐ受験を辞めろレベルの人物だが、なんと墓がここにある
正確に言うと、境内ではなく若林公園内なのだが。遺言でこの地に埋葬された。
なぜここかは恐らく前述の通り、叔父の中谷正亮が松陰神社と深い関わりを持っていたからだと考えられる。
我が国の総理大臣墓がこんな身近に…ということで楽しみにしていました
が
⑳桂太郎


入れなかったぞこの野郎(激怒)
敷地があるのだが、そこまでの道に鉄門が固く閉ざされて…
開けちゃおうかなーと思ったけど、やめときました…もう(ズームするしか)ないじゃん…
たまに閉まってるみたいですけど、そのたまににあたってしまった。無念。
というか、案内板が全くなくて笑えるよ!どうやら敷地内にあるのだが、いやいや、その敷地草で見えないから!入口に立てようよ!
しかもその道がどう考えても墓に通じる道には見えないし、誘導する気ゼロ。RPGのボーナスゾーンへの道じゃないんだからさ、そんなに隠さなくても…
なぜだ…そんなに入って欲しくないのか…?総理大臣だぞ…陸軍大臣だぞ…こんなひっそりとしていていいのか…?
解せないまま豪徳寺方面へ戻っていく。
ここで、思ったより時間が余ったためもう一つ、

世田谷八幡宮へ寄り道。世田谷線宮の坂駅の目の前。
源義家が訪れたことで名を遺しています。義家の通称は「八幡太郎」。八幡あるところ、どこにでも現れる気がする


じゃん。力石と土俵。相撲の勝ち負けも占いの一種だった名残り。
今でも東京農大相撲部が訪れるのですよー。歩いて15分くらいのところにありますね
~完~
以上。説明書きあると大分書くのが楽ww数人、分からなさすぎる人にぶちあたりましたが、どうにかなった。
実際に歩いていると分かりますけど、この工程、超、楽です。ゆっくり回っても全然時間かからないので、午後の数時間使ってお散歩気分でも余裕。ちょっと頑張れば下北沢ぐらいまで行けるし。
明治維新を見ることができず散った因縁の二人を追うこのコース、どうでしょうか。
…次回は世田谷城でちらっとでてきた場所に行ったことを…
では。
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